臆病な自尊心と向き合う、あるいは傲慢と怠惰を見つめる

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日々感じることの文書化

自分の思考の性質に苦しむ

36年生きてきて、「ああこれは自分の考え方の癖だな」と感じることは増えてきた。
そしてそう理解しているにも関わらず特定の癖は自分を強く苦しめることがある。

自分は情報工学の徒として修士号まで学んでソフトウェアエンジニアとして生計を立てている。
成長過程において(学力試験の成績や年収などと言った一面的な指標に於いて)大凡は周囲より優秀であり続けたと自負している。
その自負が故にソフトウェアエンジニアリングの世界で自らより優れた知識や技能を持つ人を目にしたとき、自尊心の危機を感じて嫉妬し、不安に襲われ、攻撃的になる。
一方でそのような人は自分が怠惰に過ごしてきた時間に学び技術を手に入れたのだ、なぜ自分はそのような努力ができず、その怠惰を棚に上げて嫉妬心などを抱いているのだ、と自責する。

美しい業前を目にしたときはそれを悦び、それに憧れるのであれば質問するなり本を手に取るなりより良い方向に昇華できれば良いのだが、自分の心はそのように動かない。
苦しむ時間こそ無駄だと頭では分かるのに苦しむ時間だけを過ごしてより良き世界に進むことができず佇んでしまう。

思考の性質を分解する

このような思考はいくつかの要素に分解できるように思う。

  • 権威主義
    • 大学の教授、ソフトウェア界で実績があるエンジニア、出版された本…といったものに権威を感じ、より信頼しているようだ
    • 自分の大学院の修士号や、新卒のときに世に知られた会社に就職したことに権威を感じ、その権威を身にまとっているように考えているのだろう
    • 裏返してみると、それらを持っていない(かもしれない)にも関わらず、自分の専門領域で自分の知らない知識・技術を持つ人が現れた時に自分の後ろ盾とする権威が通用しないことを恐れているかもしれない
  • 全能に対する欲求
    • 自らの領分と考えた領域で全能で有りたがっている
    • ソフトウェアエンジニアリングの世界は広範であり、知らないことやわからないことがあるのは理屈上当然なのだが、全能で在りたいと思っている
    • それゆえ知らないことを恐れている
  • ゼロイチ思考
    • 全能に対する欲求に関連するが、全てを手に入れていないことは何も手に入れていないことと変わらないかのような不安感がある
    • 無知を白日のもとに晒されると、その領域での自らの一切合切の価値が失われるように感じる
  • 自罰的

自らを省みながら書いているのでとりとめもないがこんなところか。
成長の中で手に入れた権威主義的思考は苦しいときの自分のバックボーンになってくれていたと思っていたが、どうも自分への重荷になっているのではなかろうか。

臆病な自尊心と尊大な羞恥心

ここで中島敦『山月記』を読む。
名文だ。

人間であった時、己は努めて人との交りを避けた。人々は己を倨傲だ、尊大だといった。実は、それが殆ど羞恥心に近いものであることを、人々は知らなかった。勿論、曾ての郷党の鬼才といわれた自分に、自尊心が無かったとは云わない。しかし、それは臆病な自尊心とでもいうべきものであった。己は詩によって名を成そうと思いながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交って切磋琢磨に努めたりすることをしなかった。かといって、又、己は俗物の間に伍することも潔しとしなかった。共に、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所為である。己の珠に非ることを惧れるが故に、敢て刻苦して磨こうともせず、又、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々として瓦に伍することも出来なかった。己は次第に世と離れ、人と遠ざかり、憤悶と慙恚とによって益々己の内なる臆病な自尊心を飼いふとらせる結果になった。

李徴にシンパシーを禁じ得ない。
引用したい箇所が多すぎるので引用の範囲を超えかねないので代表的な文を引用しているが、読むのに30分はかからないだろうからみんな読んでほしい。

李徴は如何にして救われた(救われようとした)か。
旧友と語らい、傑作でなくとも自らの詩を残した。

李徴は如何にしてその後を生きたか。
人の心を取り戻す時間に獣の己がしたことを恐れ、悲しみながらも、人の心を取り戻す時間を失うことを更に恐れた。

李徴は虎になってからなぜ虎になったのかを振り返り、自らを省みた。
俺には山月記があるのだから、虎になる前に振り返ることができる。
自分の中の獣を見つめ、小さくても自分が大切だと思うものを作り磨いて行く他ないのかもしれない。

傲慢と怠惰、そして老いへの恐怖

もう一度客観的に自分を見つめてみると、やはり傲慢なのだと感じる。
肥大した自尊心をもう一度等身大に戻し、自らがすでに何者かであるかのように振る舞う心を宥めてゆかないとならない。

そして怠惰でもある。
心を乱せばその心を慰めるのに時間を使えるし、これは自分への都合の良い言い訳にできる。
努力をする時間を使えない言い訳にできる。
これは怠惰に他ならないし、ひどく麻薬的だ。

ソフトウェアエンジニアリングは楽しい。
この感覚は今も変わっていない。
それにやれ役職だやれ収入だ学歴だとゴテゴテと変な色を付けるから良くないのではないか。

それと老いの恐怖に向き合わないとならないかもしれない。
時間と体力に溢れていた頃は今よりも未知は恐ろしくなかった。未知を学んで前に進むことが容易に感じられたからではないか。
自分の進歩は減速していっているのではないか…老いによって自分の可能性は終わりを迎えつつあるのではないか…と、そういった気持ちは少なからず胸に去来している。

ただそれにしたって、それが正しいのであればこそ、自分のリソースを正しく使って自分が望む自分になっていくべきだ。
今までと同じ様に時間を使っていたら減速するがままいつか止まってしまう。
心を乱している暇があったら楽しいエンジニアリングを更に学んでいくべきではないか。

締め

こんな文章を残してどうするのだろうか。
しばらく恥ずかしくてしょうがないかもしれないが、今の素直な気持ちの吐露として残す。

久しぶりに『山月記』を読み、文章が心に沁み入るように感じた。
子供の頃、父が頻繁に「本を読め」と言っていたことを思い出す。
自分が生まれたときの父の年齢は、去年初めて長女を迎えたときの自分の年齢と同じだ。